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臓器移植法

20090618.jpg 息子がドナーカードをどうしようかと相談してきたことがあります。同僚たちは当然のようにカードに記載していたのだけれど、自分は判断がつかなかったので保留中だとのこと。私もわからんよと答えたのですが、本人も判断がつくまでは保留しておくような返事をしていました。

結局ね、残された家族がどう思うかが問題なのであって、本人はいいんですよ。だって、亡くなっていく本人は自分の意志として提供したいと思ったのですから。でも、死を看取る家族がどう心の折り合いをつけるかというのは、亡くなっていく本人ではないのです。本人が望んだことだからそのようにしてやりたいと思うのか、まだ温かく鼓動を打っている身体なのにと思うのか、それは他人がコントロールできることではありませんよね。

今回、15歳以下の子どもの脳死からの臓器移植が問題になっていますが、衆議院で家族の同意があれば年齢に関係無く臓器提供を可能とする案が可決されました。これは二十歳をすぎたうちの息子がドナーカードを持つか持たないかというより、もっと難しい問題だと思います。だって、本人が拒否する意志を示していない限りっていう条件をつけたって、まさか、3つや4つの子がどうするかって意志があるとは思えないし。結局は親の一存ということになってしまう。

拒否をしていない限りというのがね。デフォルトで「承諾」なのでしょう?黙っている=OKなんです。私は、ここがどうにも気持ちが引っ掛かるところなのです。じゃあ、16歳以上はどうなっているのでしょうか。ドナーカード持っている必要が無くなるということ?15歳以下をどうするかが話題になっていますが、全体も見なければいけないのでしょうね。提供するにしてもしないにしても、どうしておけば良いのか、ちゃんと知っておかなければ。

それにしてもねぇ。「臓器移植を待つ子ども」も「脳死状態にある子ども」も、家族にとってはかけがえのない我が子であることに間違いはありません。どちらの場合も、我が子を助けたい、生かせたいという気持ちは同じなのです。治る見込みを信じたい、生きる可能性を奪うのかという主張はどちらも同じなのです。

どちらに対しても臓器を提供すべきだとか、移植を諦めるべきだとか、そういったことを言えるものではないし、ましてや強制することはできないと思います。願わくは、脳死になれば臓器提供をしなければならないという社会の風潮になって、脳死の子どもを抱えた家族があからさまに、もしくは暗に強制されたりしなければいいがと懸念します。

文春新書に「27人のすごい議論」というタイトルがあります。これは今での「日本の論点」から抜粋された27人の論文集です。その中に柳田邦男氏が1996年に書かれた「脳死移植をどう考えるべきか」というのが載っています。サブタイトルは「"二人称の死"の視点がなかった脳死移植論議 看取る者に納得のいく死の定義を」です。

柳田氏は自身のご子息が脳死状態になり、臓器移植を承諾した経験から、看取る者がどう納得して家族の脳死を受入れていくかを考える必要があることを言われています。私にとって、今まで新聞やテレビなどで見聞きしてきた意見の中で一番心の中に収まった意見でした。

コムツカシイハナシ :: 09-06-18 :: すえもとふさこ

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